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公会堂多賀社長 細川 磐夫
私の父方祖父細川正太郎の弟 公会堂多賀初代の料理長 細川睦夫は、盛岡中学を卒業して、1910年代、当時東京で最も優れたレストラン西洋料理「中央亭」に料理人として、修業に入っておりました。1918年日本国初の平民宰相 盛岡出身の原 敬様が、組閣を行った次の年に第1次大戦後、閉鎖しておりましたベルリンの日本大使館再開に合わせて日置大使と共に細川睦夫は、ベルリン大使館付き料理長として、ベルリン大使館に赴任しております。
その後 盛岡出身の出渕 勝爾様が臨時大使として、ベルリン大使館におられたと聞いております。
出渕様は、祖父細川 正太郎と同じ歳で、そして、友人でありましたので、細川 睦夫を大層お引き立て頂いたそうです。
細川 睦夫は、ドイツ大使館を3年勤めて後、出渕様のご紹介で同じく盛岡出身の外交官 杉村 濬様のご長男 パリ公使 杉村 陽太郎様(新渡戸稲造国際連盟事務次長の後任者)に紹介され、当時 杉村 陽太郎様(40歳)は、世界一のホテル リッツに細川 睦夫(25歳)を入社させたのであります。このホテル リッツは、当時世界のホテル王と言われた セザール リッツがオーギスト エスコフェ(プロシア皇帝に料理人の皇帝と言わしめた料理人の王様)と二人でオープンしたホテルであります。
その後二人は、ロンドン カールトン ホテルの経営も担っております。
当時カールトン ホテルでは、イギリス国王戴冠式 20世紀最大の祝宴を引き受ける程のホテルでもありました。
この様に、世界で最高級なホテル リッツは、世界の王侯貴族や大富豪が利用していたホテルでありました。
その王侯貴族の食卓の準備が出来る者として、細川 睦夫がリッツに入れたことは、奇跡に近いことであります。
 公会堂多賀をたびたび訪れた、新渡戸稲造博士
しかし、細川 睦夫が1919年ベルリン大使館に赴任してから、丁度10年目1929年(昭和3年)の盛岡で、陸軍大演習があり、昭和天皇のお食事を準備、ご用意致しました事を考え合わせましたときに、既に10年前からこの準備はなされていたのでは?と考えざるをえません。
昭和天皇の料番 秋山 徳蔵さんもこの時代パリで修業し、日本人として、初めてパリー料理人組合のメンバーシップをとっておられます。ちなみに、日本人で2番目にこのメンバーシップをとったのは、ホテル リッツに勤務していた細川 睦夫であります。この様に、細川 睦夫は同郷の先輩 出渕様・杉村様には、直接お世話を頂いておりますが、新渡戸博士との直接的・間接的に何らのつながりがあったかは、今のところ記録は残っておりません。
ただ、当時55歳であった新渡戸博士は、ロンドンからパリ、ジュネーブからパリと国際連盟の仕事で飛び回っていた時に、ホテル リッツにいる同郷の細川 睦夫との接触があったかと思われます。
新渡戸博士と親交のあった 岩手銀行頭取 中村 省三さんは、1924年ヨーロッパ外遊の時、花の都パリ・憧れのパリ・流行のパリ・オペラのパリで心を躍らせたのであったが、それ以上に異国の空で盛岡の人 細川 睦夫と逢う事が、喜びであり、万人力を得たようだったと記されています。
私の店に飾っております新渡戸 稲造博士の格言「HASTE NOT REST NOT」は新渡戸稲造博士が中村家を訪れた時に、中村 冶兵衛(省三)さんに贈られたものであります。
新渡戸博士が中村家に送った格言
「急ぐなかれ たゆむなかれ」英語では、「ハースト ノット レスト ノット」は、私の大切な格言の一つとして、使わせて頂いております。
私は多くの郷土の偉人、先達の一人 新渡戸博士をあらゆる機会に顕彰して、その偉業を誇りにして、次の世代に伝えていくのが、私の義務かと思います。
私は、これからも「新渡戸稲造博士との関わり」を大切にしながら、公会堂多賀の伝統の味を守り、料理を通して、皆様にご奉仕申し上げたいと思っております。
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